コメント:レストラン、五島牛が専門(鶏もあり、
別頁で紹介する。)とのこと。ロースをレアで試してみた。一口食べてみて驚愕した。とろける食感とはこのことをいえばよいのか、サシと脂が絶妙なバランスで入っており舌の上で見事な潤滑油となって肉をほぐしていく。その肉は歯ごたえはあるが固くはない。ごく自然な食感、脂と肉が渾然一体となって、しかし存在感は確かに主張する、とでもいえばよいだろうか。表現が適切か怪しいのを承知で書くと、この食感は食材として涅槃に到達しているのかもしれない。すなわち、海風が一年中たえることのない当地でその海風をたっぷり受けた牧草をはむ。日中は海を望む丘を自在に歩き回りストレスの全くない完璧な肥育環境で育つその牛たちは、あくまでごく自然に、生きとしものとしてその営みを重ねていく。そうした生の営みが食材として昇華するのであるから、全く無理がない。ごく自然な食感は当然であり、昇華したものだけが持つ神々しささえ感じる。当地の牛は多くは松坂に運ばれ松阪牛として肥育されるとのこと。松阪牛はサシで有名であるが、ビールを飲ませてマッサージするなどある意味で強制肥育に近い。しかしそんなことをしてサシを霜降りにして何の意味があるのだろうか。牛はできるだけ自然に近い環境でのんびり着実に肥育させるのがもっとも理にかなっており、その結果がこうしてすばらしい味を生む。もちろん、大量消費の時代供給を考えると強制肥育やフィードシステムにならざるをえないであろうことは開設者も十分理解している。しかしながら、こうしたことばかりしていると食を見失う。食を見失うということは命の営みを見失うということである。営みを見失い、営みに感謝するという気持ちがなくなれば自ずと心もすさんでいく。今、社会全体や職場の至る所でこうした心のすさんだことが原因と考えざるをえない、様々な事件が発生している。いがみ合い、たたき合い、およそ互いに尊重するという謙虚な気持ちが全く欠如している。この原因に食があるのだとしたら、我々人間社会は深刻な事態に陥っているのかもしれない。ロバート・B・ライシュは先日の著書で我々の二面性、すなわち近年収奪ともいえる利益追求の激しさが目立つが、それは我々にも責任があると指摘する。株主なり消費者の立場で利益、利便性を追求すれば当然企業、資本家はその要求に応えざるを得ず、収奪ともいえる利益追求に走る。それは我々が享受している利便性、利益の裏返しであり二面性に他ならないとの由。少なくとも食に関していえば今回の五島牛は上記の通り肥育には時間もかかるし供給も少ないので、そう頻繁に食べられるわけでない。それは便利ではなく不便、といえる。しかしその不便に対して我慢すること、たまにしか食べられないのでめいいっぱい感謝してじっくり味わうという謙虚さ、そうした姿勢を我々は改めて考え直さないといけない時期に来ていると開設者は考える。